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日本武尊(やまとたけるのみこと)

やまとたけるのみこと
やまとたけるのみこと
勝負運/ 開運/ 厄除け /仕事運

日本武尊とは?草薙剣とともに東国を駆け抜けた悲劇の英雄

日本武尊(やまとたけるのみこと)は、『古事記』『日本書紀』に登場する、日本古代を代表する英雄です。

天照大御神や須佐之男命のように、最初から神として登場する存在ではありません。

第12代・景行天皇の皇子として生まれ、父の命令を受けて西へ東へと戦い続け、最後は故郷である大和へ帰ることができないまま亡くなった人物として描かれています。

そして、その死後には白鳥となって飛び立ったという不思議な伝説が残され、各地の神社で神として祀られるようになりました。

草薙剣を手に数々の危機を乗り越えた最強の英雄。

しかし、その人生を追ってみると、決して華々しい武勇伝だけではありません。

兄を殺して父から恐れられ、遠征を繰り返し、愛する妻を海で失い、最後には自らの力を過信して伊吹山の神に敗れる。

そして、その息子はのちに天皇となります。

日本武尊の生涯は、日本神話の中でも特に波乱に満ちた物語なのです。

日本武尊はいつごろの人物?

日本武尊は、第12代・景行天皇の皇子とされています。

『日本書紀』の伝統的な年代を現在の西暦に換算すると、景行天皇の在位は西暦71年〜130年。

つまり、物語上はおおよそ西暦1〜2世紀ごろにあたります。

ただし、この年代をそのまま歴史的事実として考えることはできません。

『古事記』『日本書紀』に登場する初期の天皇には非常に長い寿命や在位期間が記されており、現代の歴史学では、その年代をそのまま実年代として確認することはできないからです。

そのため日本武尊についても、「西暦1〜2世紀に実際にこの人物が記録どおりの遠征を行った」と断定するのではなく、古代の王権や各地の英雄伝承を背景に成立した人物像として見る必要があります。

最初から「日本武尊」ではなかった

『古事記』では、日本武尊は最初、

小碓命(おうすのみこと)

という名前で登場します。

景行天皇の皇子ですが、若いころから並外れた力を持っていました。

しかし、その力はあまりにも激しいものでした。

日本武尊の英雄物語は、意外にも「兄殺し」から始まります。

父に「兄を注意しろ」と言われて、兄を殺してしまう

小碓命には、大碓命(おおうすのみこと)という兄がいました。

あるとき大碓命が朝夕の食事の席に姿を見せなくなったため、父・景行天皇は小碓命に、兄をきちんと諭すよう命じます。

ところが小碓命の対応は、父が想像していたものとはまったく違いました。

『古事記』では、小碓命は兄が厠へ入ったところを待ち伏せし、捕まえて押しつぶし、手足を引きちぎり、薦に包んで捨ててしまったという凄惨な話が記されています。

父としては「兄にちゃんと言い聞かせなさい」という程度のつもりだったはずです。

ところが息子は兄を殺してしまった。

これを知った景行天皇は、小碓命のあまりの荒々しさを恐れます。

そして自分のそばから遠ざけるように、西方の熊襲を討つよう命じるのです。

女装して熊襲の宴へ潜入

熊襲征討でも、小碓命は普通の戦い方をしません。

まだ若かった小碓命は髪を下ろし、女性の衣装を身につけ、美しい少女の姿に変装します。

そして熊襲建(くまそたける)の宴へ潜入。

相手が油断したところで隠し持っていた剣を抜き、熊襲建を討ちました。

このとき熊襲建は、自分を倒した皇子の強さを認め、「倭建(やまとたける)」の名を贈ったと『古事記』では語られます。

こうして小碓命は、

倭建命(やまとたけるのみこと)

と呼ばれるようになりました。

つまり「ヤマトタケル」という名前そのものが、敵からその強さを認められて得た名前なのです。

西から帰ったら、今度は東へ

熊襲を討って大和へ戻った日本武尊。

しかし、これでようやく平穏な生活に戻れるわけではありませんでした。

父・景行天皇は今度は、日本武尊に東国の平定を命じます。

西から戻ったばかりなのに、次は東。

『古事記』では、日本武尊はここで叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)に、

「父は私に死ねと思っているのではないか」

という趣旨の嘆きを漏らします。

圧倒的な強さを持つ英雄でありながら、その心の中には「父から愛されていないのではないか」という悲しみがありました。

日本武尊の物語が単純な英雄譚ではない理由の一つです。

伊勢で授けられた「草薙剣」

東国へ向かう途中、日本武尊は伊勢を訪れます。

そこで叔母の倭比売命から授けられたのが、

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

です。

これは、もともと須佐之男命が八岐大蛇を退治した際、その尾から発見した神剣。

須佐之男命はこの剣を天照大御神へ献上します。

それが時代を経て、日本武尊の手へ渡るのです。

のちにこの剣は、

草薙剣(くさなぎのつるぎ)

と呼ばれるようになります。

なぜ「草薙剣」になったの?

東国へ向かった日本武尊は、敵の策略によって野原へ誘い込まれ、周囲から火を放たれます。

絶体絶命の状況です。

そこで日本武尊は神剣で周囲の草を薙ぎ払い、倭比売命から渡されていた火打石も使って迎え火を放ち、危機を切り抜けます。

この伝説から、

草を薙いだ剣
=草薙剣

と呼ばれるようになったと伝えられています。

草薙剣は現在、三種の神器の一つとして知られ、熱田神宮と深い関係を持つ神剣です。

愛する妻・弟橘比売命との別れ

東国遠征の途中、日本武尊にはさらに大きな悲劇が訪れます。

海を渡ろうとしたとき、海が激しく荒れ、船が進めなくなりました。

そのとき妻の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、海の神を鎮めるため、自ら海へ身を投じたと伝えられています。

妻の犠牲によって海は静まり、日本武尊は先へ進むことができました。

しかし日本武尊は、大切な妻を失います。

その後、東国から戻る途中、日本武尊は弟橘比売命を思い、

「吾妻はや」

と嘆いたと『古事記』では語られています。

「わが妻よ……」

という悲しみの言葉です。

これが「東(あずま)」という呼び名の由来になったという伝説もあります。

でも日本武尊には、ほかにも妻と子どもがいた

ここは日本武尊の系譜を理解するうえで重要です。

弟橘比売命との悲恋があまりにも有名なので、日本武尊の妻は彼女だけだったように感じますが、『古事記』『日本書紀』では日本武尊には複数の妃と子が伝えられています。

その中でも重要なのが、

両道入姫命(ふたじのいりひめのみこと)

との間に生まれた皇子です。

その皇子が、のちの

第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)。

日本武尊自身は天皇にはなりませんでした。

父・景行天皇が第12代、その次は第13代・成務天皇。

そして成務天皇の次に、日本武尊の息子である仲哀天皇が第14代として即位したと伝えられています。

つまり、

景行天皇
↓
日本武尊
↓
仲哀天皇
↓
応神天皇

という皇統につながっていきます。

仲哀天皇の妻が、朝鮮半島への「三韓征伐」伝承で知られる神功皇后。

そして二人の子が、のちに八幡神とも深く結びついていく第15代・応神天皇です。

日本武尊自身は天皇にならなかったものの、その血筋は後の天皇へとつながっていったのです。

東国を平定して、ようやく故郷へ

長い東国遠征を終え、日本武尊はようやく故郷へ戻ろうとします。

ここでいう「大和」とは、現在の奈良県を中心とする地域です。

つまり日本武尊が帰ろうとしていたのは、現在の奈良県方面。

ところが、その帰路で日本武尊はある山へ向かいます。

伊吹山(いぶきやま)です。

日本武尊が戦った「伊吹山」は本当にある

伊吹山は神話上の架空の山ではありません。

現在も、滋賀県と岐阜県の県境にそびえる実在の山です。

標高は1,377メートルで、滋賀県最高峰。

現在の滋賀県米原市も、伊吹山を『古事記』『日本書紀』に登場する日本武尊伝説の舞台として紹介しており、山頂には日本武尊の像もあります。(米原市公式サイト)

つまり現在でも、実際に地図で「日本武尊が神に挑んだ山」を見ることができるのです。

「この山の神くらい、素手で倒せる」

数々の敵を倒してきた日本武尊。

しかし、ここで大きな過ちを犯します。

伊吹山の神を、自分の力だけで倒せると考えたのです。

日本武尊は、それまで自分を何度も危機から救ってきた草薙剣を置いたまま、伊吹山へ向かいます。

山中で大きな白い猪に遭遇します。

日本武尊はそれを神の使いだと考え、帰りにでも殺せばよいと軽く扱います。

ところが『古事記』では、この猪こそ伊吹山の神そのものだったと語られます。

神は激しい氷雨を降らせ、日本武尊を惑わせました。

あれほど強かった日本武尊が、ここでは伊吹山の神を倒すことができません。

むしろ神の力によって大きなダメージを受け、山を下りることになります。

米原市の現在の観光案内でも、日本武尊は「伊吹山の荒ぶる神に挑みますが、返り討ちに遭い、深手を負った」と紹介されています。(米原市公式サイト)

草薙剣を持っていたときは勝てたのに

ここは、日本武尊の物語でも特に象徴的な場面です。

敵に野原を焼かれたとき、日本武尊は草薙剣によって絶体絶命の危機を乗り越えました。

ところが伊吹山では、その神剣を置いていきます。

そして、

「自分の力だけで倒せる」

と神に挑んだ。

結果、日本武尊は敗れます。

どれほど強い人間であっても、神そのものを侮ってはいけない。

日本武尊の敗北には、そんな古代の神への畏れを見ることもできます。

伊吹山から奈良へ帰ろうとする

伊吹山で神の力を受けた日本武尊は、急速に身体を弱らせていきます。

それでも彼が目指したのは故郷・大和でした。

現在の地理に置き換えると、

伊吹山
=滋賀県・岐阜県境

大和
=現在の奈良県方面

です。

つまり日本武尊は、現在の滋賀県方面から奈良県へ帰ろうとしていたことになります。

しかし、身体はもう限界に近づいていました。

「大和は国のまほろば」

弱りながら旅を続ける日本武尊は、故郷を思います。

そこで語られるのが、有名な国偲びの歌です。

「倭は 国のまほろば……」

「まほろば」とは、すばらしい場所、住みよい場所といった意味を持つ古い言葉です。

西へ行き、東へ行き、各地で戦い続けてきた日本武尊。

最後に帰りたいと思った場所は、やはり故郷の大和でした。

あと少しだった。でも奈良には帰れなかった

日本武尊は、ついに大和へ帰ることができませんでした。

亡くなったと伝えられるのは、

伊勢国・能褒野(のぼの)。

現在の三重県亀山市周辺に比定されています。

つまり現代の地図で考えると、

滋賀・岐阜県境の伊吹山で神に敗れる
↓
衰弱しながら移動する
↓
三重県へ
↓
さらに西へ進めば故郷の奈良県
↓
しかし三重県で力尽きる

ということになります。

「大和へ帰れなかった」というのは単なる象徴的な表現ではなく、物語の地理としても、本当に故郷へ戻る途中で亡くなったということなのです。

米原市にも、伊吹山で負傷した日本武尊が大和へ帰る途中で病状を悪化させたという伝承が残されています。(米原市公式サイト)

死んだ日本武尊は「白鳥」になった

しかし、日本武尊の物語はここで終わりません。

亡くなった日本武尊のために陵墓が造られると、その魂は大きな白鳥となって飛び立ったと伝えられています。

人々が白鳥を追って新たな陵を造ると、白鳥は再び飛び立つ。

戦い続け、最後まで大和へ帰ることのできなかった英雄は、死後、白鳥となって空へ旅立ったのです。

この白鳥伝説によって、日本武尊は単なる皇子や武将ではなく、次第に神聖な存在として信仰されるようになっていきました。

日本武尊は本当に実在したの?

日本武尊の物語には、実在する地名が次々と登場します。

伊勢、東国、伊吹山、大和、能褒野。

特に伊吹山は現在も滋賀県と岐阜県の境にそびえ、日本武尊伝説を今に伝えています。(米原市公式サイト)

しかし、舞台となった場所が実在することと、日本武尊の物語がすべて歴史的事実であることは別です。

日本武尊の遠征には、古代のヤマト王権が各地へ勢力を広げていった記憶や、それぞれの土地に伝わっていた英雄伝承などが重なっている可能性があります。

そのため日本武尊は、

「『古事記』『日本書紀』に描かれた古代日本を代表する英雄」

として捉えるのがよいでしょう。

日本武尊のご利益

日本武尊は、その圧倒的な武勇と、幾度もの困難を乗り越えた物語から、勝負や厄除けなどの信仰と結びついています。

代表的には、

勝負運
開運
厄除け
仕事運

など。

また各地の神社では、その土地に残る日本武尊伝承によって、さまざまな御神徳が語られています。

花園神社にも祀られている日本武尊

新宿の花園神社にも、日本武尊が御祭神として祀られています。

花園神社では大鳥神社が合祀されており、日本武尊への信仰は11月の「酉の市」ともつながっています。

新宿の華やかな酉の市だけを見ていると、日本武尊の壮絶な人生を思い浮かべることはあまりないかもしれません。

しかし御祭神をたどっていくと、そこには『古事記』『日本書紀』を代表する英雄の物語へとつながる入口があります。

強すぎた皇子は、最後に神に敗れた

日本武尊の人生を最初から追うと、かなり激しい物語です。

兄を殺して父から恐れられ、西の熊襲へ送られる。

熊襲を討って帰ってくると、今度は東国へ。

草薙剣によって絶体絶命の危機を切り抜ける一方、妻・弟橘比売命を海で失います。

それでも東国を平定し、ようやく故郷・大和へ帰ろうとします。

ところが最後に、自分の力を過信して伊吹山の神に挑み、敗れる。

そして、現在の奈良県にあたる大和を目前にしながら、現在の三重県で力尽きます。

本人は天皇にはなれませんでしたが、別の妃との間に生まれた息子は、のちの第14代・仲哀天皇となりました。

最強の英雄でありながら、すべてを思い通りにできたわけではない。

むしろ強すぎるがゆえに父から恐れられ、戦い続け、最後には人間の力を超えた「神」の前で敗れた。

そして、故郷へ帰れないまま白鳥となって空へ飛び立つ。

日本武尊が千年以上にわたって人々を惹きつけてきたのは、単に「強い英雄」だったからではないのかもしれません。

強さ、傲慢さ、悲しみ、愛する人との別れ、故郷への思い。

そのすべてを抱えたまま生涯を終えたからこそ、日本武尊は日本神話の中でもひときわ人間らしい「悲劇の英雄」として、今も語り継がれているのです。

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