彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)とは?「山幸彦」として知られる海幸山幸神話の主人公
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の子として生まれた神様です。
「彦火火出見尊」という名前よりも、「山幸彦(やまさちひこ)」の名で知っている人の方が多いかもしれません。
兄・海幸彦との道具の交換から始まり、大切な釣り針を失い、海神の宮を訪れ、海神の娘・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と結婚する――。
昔話の「海幸彦と山幸彦」として知られる物語の主人公です。
しかし、この神話は単なる兄弟の昔話ではありません。
彦火火出見尊と豊玉姫命の間に生まれた鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の子が、やがて初代天皇とされる神武天皇へとつながります。
つまり彦火火出見尊は、天照大御神から瓊瓊杵尊へ受け継がれた天孫の系譜を、さらに神武天皇へとつなぐ重要な神様なのです。
炎の中で生まれた神
彦火火出見尊の誕生には、母・木花咲耶姫命の壮絶な物語があります。
木花咲耶姫命は瓊瓊杵尊と結婚し、一夜で身ごもりました。
しかし瓊瓊杵尊は、
「一夜で身ごもるはずがない。自分の子ではなく、国つ神の子なのではないか」
と疑います。
そこで木花咲耶姫命は、自分の潔白を証明するため産屋を造り、その中に入って火を放ちました。
そして「瓊瓊杵尊の子であるならば、火の中でも無事に生まれるはず」と誓い、燃え盛る炎の中で出産します。
『古事記』では、この火中出産によって、
火照命(ほでりのみこと)
火須勢理命(ほすせりのみこと)
火遠理命(ほおりのみこと)
の三柱が誕生します。
この火遠理命が、後に山幸彦として知られる神です。
『日本書紀』では「彦火火出見尊」の名で登場し、現在の神社でもこの神名で祀られることがあります。
山幸彦と海幸彦
彦火火出見尊の物語で最も有名なのが「海幸彦と山幸彦」です。
兄の火照命は、海で魚を捕ることを得意とする「海幸彦」。
弟の火遠理命は、山で獣を狩ることを得意とする「山幸彦」。
兄は釣り針を使って海の幸を取り、弟は弓矢を使って山の幸を取って暮らしていました。
ある日、山幸彦は兄に、
「お互いの道具を交換してみよう」
と持ちかけます。
海幸彦の釣り針を借り、山幸彦は海へ。
海幸彦は山幸彦の弓矢を借り、山へ向かいました。
ところが、慣れない道具を使った二人は、どちらもうまく獲物を取ることができませんでした。
兄の大切な釣り針をなくしてしまう
さらに山幸彦は、兄から借りた大切な釣り針を海の中でなくしてしまいます。
当然、海幸彦は釣り針を返すよう求めました。
山幸彦は自分の剣を壊し、たくさんの釣り針を作って兄に差し出します。
しかし海幸彦は、
「欲しいのは新しい釣り針ではない。なくした元の釣り針を返してほしい」
と受け取りません。
山幸彦は途方に暮れてしまいます。
塩椎神に導かれ、海神の宮へ
海辺で悲しんでいた山幸彦の前に現れたのが、塩椎神(しおつちのかみ)です。
事情を聞いた塩椎神は、山幸彦を助けることにします。
竹で船を作り、山幸彦を乗せ、海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)の宮へ向かう方法を教えました。
こうして山幸彦は海を渡り、海の神が暮らす世界へ向かいます。
ここから物語は、山と地上を舞台にした話から、一気に神秘的な海の世界へと移っていきます。
海神の宮で豊玉姫命と出会う
海神の宮へたどり着いた山幸彦は、井戸のそばにある木の上で待っていました。
そこへ海神・大綿津見神の娘である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の侍女が水を汲みにやってきます。
山幸彦の存在に気づいた侍女から話を聞き、豊玉姫命も彼のもとへやってきました。
二柱は互いに心を惹かれます。
やがて父の大綿津見神も、山幸彦が天照大御神の系譜を引く瓊瓊杵尊の子であることを知り、二柱の結婚を認めます。
こうして山幸彦は豊玉姫命と結婚し、海神の宮で暮らすことになります。
海神の宮で過ごした「三年」
山幸彦は豊玉姫命とともに、海神の宮で幸せに暮らしました。
しかし、やがて深いため息をつきます。
実は山幸彦は、海神の宮へ来た本来の目的を忘れていたのです。
兄の釣り針を探しに来たことを思い出した山幸彦は、その事情を大綿津見神に話しました。
海神は海の魚たちを集め、なくした釣り針について尋ねます。
すると鯛が口を痛めていることが分かります。
その口を調べると――。
そこから、山幸彦がなくした兄の釣り針が見つかったのです。
海神から二つの珠を授かる
釣り針が見つかると、大綿津見神は山幸彦を地上へ帰すことにします。
その際、ただ釣り針を返しただけではありません。
山幸彦に海を操る不思議な力を持った珠を授けます。
それが、
潮満珠(しおみつたま)
潮乾珠(しおひるたま)
です。
潮満珠は潮を満たし、潮乾珠は潮を引かせる力を持つとされました。
さらに大綿津見神は、兄に釣り針を返す際の方法や、その後どう振る舞えばよいのかを山幸彦に教えます。
こうして山幸彦は、海神の力を授かって地上へ戻ることになります。
海幸彦との立場が逆転する
地上へ帰った山幸彦は、なくしていた釣り針を兄・海幸彦へ返します。
しかし兄弟の対立はそれだけでは終わりませんでした。
山幸彦は海神から授かった潮満珠と潮乾珠の力を使います。
潮を満たして兄を苦しめ、兄が助けを求めると潮を引かせる。
こうしたことを繰り返すうちに、海幸彦は弟に服従することになります。
物語の最初では、山幸彦は兄の釣り針をなくして途方に暮れる側でした。
しかし海神の世界を訪れ、その力を授かって帰ってきたことで、兄弟の立場は大きく逆転したのです。
豊玉姫命が地上へやってくる
山幸彦が地上へ戻った後、豊玉姫命は彼の子を身ごもっていることを知ります。
そして出産の時が近づくと、夫である山幸彦のいる地上へやってきました。
豊玉姫命は、
「天つ神の御子を海原で産むことはできない」
として、海辺に産屋を造ります。
ところが、出産を前にして豊玉姫命は山幸彦に一つのお願いをしました。
「私が子を産んでいるところを、決して見ないでください」
というものです。
「見ないで」と言われたのに見てしまう
日本神話では、この展開にどこか見覚えがあります。
伊邪那岐命と伊邪那美命の黄泉の国の神話でも、伊邪那美命は伊邪那岐命に「私を見ないでください」と告げました。
そして伊邪那岐命は、その約束を破ってしまいます。
山幸彦も同じでした。
「見ないでほしい」と頼まれていたにもかかわらず、豊玉姫命がどのように出産しているのか気になり、その姿を見てしまったのです。
豊玉姫命の本当の姿
山幸彦が産屋をのぞくと、そこに普段の美しい豊玉姫命の姿はありませんでした。
『古事記』では、豊玉姫命は「八尋和邇(やひろわに)」となって、腹ばいになり、うねるような姿で出産していたと描かれます。
「和邇」が具体的にどのような生き物を指すのかについては解釈がありますが、海に関わる巨大な異形の存在として描かれています。
本来の姿を見られたことを知った豊玉姫命は、深く恥じました。
本当は海と地上を行き来できる道を作り、夫とともに暮らしていこうと考えていたとされます。
しかし約束を破られた豊玉姫命は、海と地上を結ぶ道を閉ざし、海神の国へ帰ってしまいました。
二人の間に生まれた鵜葺草葺不合命
このとき生まれたのが、
鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
です。
非常に長く、覚えにくい名前ですが、この神様が後の神話で重要な存在になります。
豊玉姫命は山幸彦のもとを去ったものの、夫への思いまで失ったわけではなかったとされます。
そして妹の玉依毘売命(たまよりびめのみこと)を地上へ送り、子どもを養育させました。
後に鵜葺草葺不合命は、この玉依毘売命を妻とします。
孫が初代・神武天皇となる
鵜葺草葺不合命と玉依毘売命の間には、四柱の子が生まれます。
その末の子が、
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)。
後に初代天皇として知られる神武天皇です。
つまり系譜をつなげると、
天照大御神
↓
天忍穂耳命
↓
瓊瓊杵尊 + 木花咲耶姫命
↓
彦火火出見尊 + 豊玉姫命
↓
鵜葺草葺不合命 + 玉依毘売命
↓
神武天皇
となります。
彦火火出見尊は、神武天皇の祖父にあたる神様です。
「山幸彦」は正式な神名ではない?
「山幸彦」という呼び名が非常に有名ですが、これは彦火火出見尊の物語上の呼称として知られるものです。
『古事記』では火遠理命(ほおりのみこと)として登場し、山の幸を得る「山佐知毘古(やまさちびこ)」として描かれます。
一方、『日本書紀』では彦火火出見尊などの名で登場します。
そのため、
彦火火出見尊
火遠理命
山幸彦
は、基本的に同じ神を指す名称として理解できます。
ただし、『古事記』と『日本書紀』では名前の表記や物語の細部に違いがあります。
山の神なの?海の神なの?
「山幸彦」という名前だけを見ると、山を司る神様のように思えます。
ところが彦火火出見尊の物語の大部分は「海」と深く関係しています。
山の幸を得る神として登場しながら、海神の宮へ行き、海神の娘と結婚し、潮を操る珠を授けられる。
つまり彦火火出見尊は、山と海という異なる世界を行き来した神なのです。
そして天つ神の系譜である彦火火出見尊と、海神の娘である豊玉姫命が結ばれることで、その血筋も一つになります。
この二つの系譜が、さらに神武天皇へとつながっていきます。
箱根神社・箱根元宮に祀られる彦火火出見尊
彦火火出見尊は、箱根神社と駒ヶ岳山頂の箱根元宮に祀られている神様でもあります。
両社では、
瓊瓊杵尊
木花咲耶姫命
彦火火出見尊
の三柱を総称して「箱根大神(はこねのおおかみ)」として祀っています。
瓊瓊杵尊が父、木花咲耶姫命が母、彦火火出見尊がその子。
つまり箱根大神は、天孫降臨からその次の世代へと続く家族の神々でもあるのです。
彦火火出見尊を祀る代表的な神社
彦火火出見尊を祀る神社として特に有名なのが、鹿児島県霧島市の鹿児島神宮です。
また、宮崎県日南市の鵜戸神宮など、彦火火出見尊から鵜葺草葺不合命、神武天皇へと続く日向神話に関係する地域には、この系譜の神々を祀る神社が数多くあります。
箱根神社・箱根元宮でも、箱根大神の一柱として信仰されています。
彦火火出見尊のご利益
彦火火出見尊は、神社によってさまざまな御神徳と結びついています。
海幸彦との争いを乗り越えた神話、海神の宮へ旅した物語、豊玉姫命との結婚、皇統へと続く子孫繁栄などから、開運、勝負運、家内安全、縁結び、子孫繁栄などの信仰と結びつけられることがあります。
また海や航海に関係する神話を持つことから、海上安全などの信仰につながる場合もあります。
ただし、具体的なご利益は祀られている神社の由緒や信仰によって異なります。
失敗から始まり、大きく成長して帰ってきた神
彦火火出見尊の物語がおもしろいのは、最初から強くて完璧な英雄ではないところです。
物語の始まりでは、兄から借りた釣り針をなくしてしまい、途方に暮れています。
自分で代わりの釣り針を作っても許してもらえず、どうすることもできません。
ところが塩椎神との出会いによって海神の世界へ向かい、そこで豊玉姫命と出会い、大綿津見神の助けを得て、失った釣り針を取り戻します。
そして海神の力を授かり、地上へ帰ってくる。
「失敗して困り果てた若い神が、異世界へ旅をし、さまざまな経験と力を得て帰ってくる」という、まるで冒険物語のような構造になっています。
一方で、豊玉姫命との「見ない」という約束を破り、最愛の妻が海へ帰ってしまうという失敗も犯します。
彦火火出見尊もまた、瓊瓊杵尊と同じように、決して完全無欠な存在として描かれているわけではありません。
失敗し、助けられ、成長し、ときには再び過ちを犯す。
そんな人間らしさを持ちながら、天照大御神から続く天孫の系譜を次の世代へつなぎ、やがて神武天皇の誕生へとつながっていく。
彦火火出見尊は、日本神話の中でも特に物語性に富んだ「山幸彦」の神様なのです。
