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平将門命(たいらのまさかどのみこと)

たいらのまさかどのみこと
たいらのまさかどのみこと
勝運 /仕事運/ 開運/ 厄除け/ 除災/ 地域守護

平将門命(たいらのまさかどのみこと)とは?反逆者と呼ばれ、やがて関東の守護神となった武将

平将門命(たいらのまさかどのみこと)は、平安時代に実在した武将・平将門(たいらのまさかど)が、死後に神として祀られるようになった存在です。

天照大御神や大国主命のように神話の中で神として生まれた存在ではなく、もともとは一人の人間でした。

朝廷に反旗を翻して「新皇(しんのう)」を名乗った反逆者として知られる一方、関東では英雄として語られることもあり、死後は強い霊威を持つ存在として畏れられるようになります。

そして、その御霊を鎮めて祀る信仰が生まれ、現在では神田明神の三之宮「まさかど様」として祀られています。

平将門はどんな人物だった?

平将門は、平安時代中期に関東で勢力を持った武将です。

桓武天皇につながる桓武平氏の一族に生まれ、現在の茨城県西部を中心とした関東地方を活動の基盤としていました。

後世には「朝廷に反乱を起こした武将」として有名になりますが、最初から天皇や朝廷を倒そうとして戦い始めたわけではありません。

将門の戦いの始まりは、関東に暮らす平氏一族の内部で起こった争いでした。

最初は親族同士の争いだった

父の死後、所領などをめぐって将門と叔父たちとの対立が激しくなっていきます。

特に叔父の平良兼(たいらのよしかね)らとの争いは、武力による激しい戦いへ発展しました。

しかも将門の妻は、敵対する良兼の娘だったと『将門記』から読み取ることができます。

争いの中では、将門の妻と子どもたちが良兼側へ連れ戻されるという出来事も起こりました。

その後、妻は兄弟たちの助けによって将門のもとへ戻ったと伝えられています。

「妻子を殺された恨みから将門が反乱を起こした」という話ではありませんが、身内同士が敵味方に分かれるほど激しい争いだったのです。

一族の争いが朝廷への反乱へ

親族同士から始まった争いは、やがて地方の役所である国府まで巻き込む大きな戦いへ発展していきます。

将門は常陸国府を攻め、その後、関東各地の国府を次々と制圧しました。

そしてついには、自らを「新皇」と称したと伝えられています。

当時、日本には京都の朝廷と天皇が存在していました。

その中で自ら新たな「皇」を名乗り、関東の国々を支配することは、朝廷から見れば明確な反逆です。

こうして一族間の争いから始まった戦いは、「平将門の乱」と呼ばれる大事件へと発展しました。

将門は戦いの中で命を落とした

朝廷は将門を討つよう命じ、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)や平貞盛(たいらのさだもり)らが将門と戦います。

天慶3年(940年)、将門は戦いの中で討死しました。

将門は「恨みながら自ら命を絶った」という人物ではありません。

最後まで武将として戦い、その戦いの中で命を落とした人物です。

そして、将門の物語が「怨霊」や「祟り」と強く結びついていくのは、その死後のことでした。

将門の首は京都でさらされた

討ち取られた将門の首は京都へ送られ、さらされたと伝えられています。

ここから先は歴史上の出来事というより、後世に語り継がれてきた伝説の世界へ入っていきます。

京都でさらされていた将門の首は、自分の身体を求めるかのように夜な夜な声を発し、やがて空へ飛び上がって東国へ向かったという伝説が生まれました。

そして、その首が落ちた場所の一つとして伝えられているのが、現在の東京・大手町です。

なぜ将門の首が東京に飛んできたの?

ここで不思議なのが、「なぜ東京なのか」ということです。

将門が生きていた10世紀には、当然まだ現在のような「東京」という都市はありません。

江戸が政治の中心となるのも、はるか後の時代です。

しかも将門の本拠地は現在の茨城県西部を中心とする地域で、大手町が将門の故郷だったわけでもありません。

後世の伝説では、京都から東国を目指した将門の首が現在の大手町付近に落ちたとされていますが、なぜその場所だったのかについて明確な理由が伝えられているわけではありません。

また、将門の首が飛来したとする伝承は各地に残っています。

そのため「将門の首が京都から現在の大手町まで実際に飛んできた」という話ではなく、長い年月の中で形成されていった将門伝説の一つとして捉える必要があります。

将門塚に本当に首が埋まっているの?

現在の東京都千代田区大手町には、「将門塚(まさかどづか)」と呼ばれる場所があります。

一般には「将門の首塚」として知られています。

伝説では、飛来した将門の首をこの地に葬ったとされています。

しかし、現在そこに将門本人の頭蓋骨が埋葬されていることが確認されているわけではありません。

将門塚は「将門の首が確実に埋まっている墓」というより、長い歴史の中で将門の御霊を供養し、鎮め、敬ってきた場所と考える方が分かりやすいでしょう。

「封印」ではなく、御霊を鎮めて祀る

将門塚については「恐ろしい将門の怨霊を封印した場所」のように語られることがあります。

しかし、日本の信仰を理解するうえでは「封印」よりも「鎮めて祀る」という考え方が重要です。

日本では、非業の死を遂げた人物の霊が災いを起こすと考えられたとき、その霊をただ恐れて遠ざけるのではなく、丁重に供養して祀ることで御霊を鎮めようとする信仰がありました。

これを御霊信仰(ごりょうしんこう)と呼びます。

菅原道真公が天神として祀られるようになった背景にも、同じような考え方を見ることができます。

なぜ平将門が「神様」になったの?

神道では、神話に登場する神だけが「神」になるわけではありません。

自然や土地、祖先などが神として祀られることもあれば、実在した人物が死後に神として祀られることもあります。

将門もその一人です。

非業の死を遂げた将門は、死後に非常に強い霊威を持つ存在として畏れられるようになりました。

そしてその強い御霊を丁重に祀ることで、災いをもたらす存在ではなく、逆に人々や土地を守ってもらおうとする信仰へと変化していきます。

つまり、

人間として生きた平将門
↓
戦いで非業の死を遂げる
↓
強い御霊として畏れられる
↓
御霊を鎮め、丁重に祀る
↓
人々や土地を守る神として信仰される

という流れです。

「死んだ人はすべて神になる」ということではなく、人々がその人物の霊威を感じ、長い年月をかけて祀り続けたことで、将門は神として信仰されるようになったのです。

神田明神の「まさかど様」へ

現在、平将門命は神田明神の三之宮として祀られています。

神田明神の御祭神は、

一之宮
大己貴命(おおなむちのみこと)=だいこく様

二之宮
少彦名命(すくなひこなのみこと)=えびす様

三之宮
平将門命(たいらのまさかどのみこと)=まさかど様

の三柱です。

14世紀初めごろには、時宗の僧・真教上人(しんきょうしょうにん)が将門の御霊を慰め、神田明神に祀ったと伝えられています。

こうして平安時代に朝廷へ反乱を起こした武将が、時代を経て江戸・東京を守る神の一柱となっていきました。

一度は神田明神の御祭神から外された

しかし、将門はずっと神田明神の御祭神だったわけではありません。

明治時代になると、天皇を中心とする国家体制のもとで、朝廷に反乱を起こした将門を主祭神として祀ることが問題となりました。

明治7年(1874年)、将門は本社の御祭神から外され、境内の摂社へ遷されます。

それでも将門に対する人々の信仰はなくなりませんでした。

そして昭和59年(1984年)、平将門命は再び神田明神の本社御祭神として復座しました。

1000年以上前に亡くなった一人の武将への信仰が、現代まで続いていることが分かります。

平将門命のご利益

平将門命は、

勝運
仕事運
開運
厄除け
除災
地域守護

などの信仰と結びついています。

武将として戦った人物であることに加え、死後には強い霊威を持つ守護神として信仰されてきたことから、勝負事や困難を乗り越えたいときにも崇敬されています。

反逆者から東京を守る神へ

平将門は、見る立場によってまったく違った姿を見せる人物です。

朝廷から見れば反逆者。

関東では英雄として語られることもあり、死後には強い御霊として畏れられました。

そして、その御霊を鎮めて祀る信仰の中で、やがて人々や土地を守る神へと変わっていきます。

現在では、神田明神の三之宮「まさかど様」。

平将門命は、最初から神だったわけではありません。

一人の人間として生き、戦い、死に、その後1000年以上にわたって人々から畏れ、敬われ、祀られ続けたことで「神」となった存在です。

平将門の物語は、神話の神だけではなく、人間や祖先、自然までも神として祀ってきた、日本の「神」という存在の奥深さをよく表しています。

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